
―― 抹茶ブームと煎茶高騰が、評茶と茶教育に突きつける課題
抹茶ブームと煎茶高騰を、市況として眺めるだけなら報告書に任せればよい。
だが中華茶講師協会に集う私たちは、中国茶・台湾茶を「教える」立場にある。
だからこの局面を、評茶(官能鑑定)と茶教育の課題として読み替えたい。
結論を先に置く――
今回の転換期がえぐり出したのは、需給ではなく「定義の空洞」であり、
その空洞は輸出ブームに三十年先行して、国内消費の現場ですでに広がっていた。
そして、その空洞を埋められるのは、証明できる者、すなわち評茶とトレーサビリティを扱える者だけである。
1. 空洞の正体:
拘束力なき「抹茶」と、運用される「貴州抹茶」
日本茶業中央会は抹茶を「覆下栽培の碾茶を茶臼等で微粉末状にしたもの」と定義するが、
この定義に拘束力はない。
一方、世界流通上の「matcha」は、しばしば単なる粉末緑茶を含む広義語として使われる。
この落差が、産地偽装や品質と価格の乖離を生む温床になっている
(業界紙、JETROのタイ市場調査でも、表示の不一致・他国産の混在・トレーサビリティ要求が指摘されている)。
対照的に、中国はこの領域を制度で固めつつある。講師・受講生に示すべき比較を、表で整理する。
| 日本茶業中央会「抹茶」定義 | 貴州抹茶 地方基準(2018年10月) | 世界流通の「matcha」実態 | |
|---|---|---|---|
| 対象・工程 | 覆下栽培の碾茶を茶臼等で微粉末化 | 被覆栽培・蒸青・非揉捻・輻射熱乾燥を明記 | 明確な基準なし(粉末緑茶を含む) |
| 等級・成分規定 | 規定なし | 特級を官能指標+テアニン総量で規定 | ばらつき大 |
| 安全基準 | 一般の食品基準に準拠 | 残留農薬6項目を国家基準より厳格化 | 産地・事業者により差 |
| 拘束力 | なし(表示基準上の参考) | 地方標準として運用 | ― |
補足すべきは、貴州側が自らの基準で「緑茶粉のようなまがいものの出現を回避する」と明言している点だ。
中国は、日本発祥の抹茶を模倣しながら、「本物とまがいものの線引き」を先に制度化しはじめている。
これは私たちにとって、教材としても危機感の共有としても重要な事実である。
2. 国内前史:
急須離れの三十年と「情報の非対称性」
見落としてはならないのは、この「証明できない」問題が、輸出ブームより三十年早く国内で進行していたことだ。
自動販売機(人口当たり世界最高水準、飲料自販機約220万台)とペットボトル茶の普及により、
二〇〇七年には家計の茶飲料支出がリーフ緑茶を逆転している
(総務省家計調査。二〇二四年は一世帯で緑茶3,153円/茶飲料8,962円)。
ここで重要なのは、これが単なる嗜好の変化ではなく「情報の非対称性」の問題だという整理である。
品質が購入前に観測できないため、高品質茶はプレミアムを取れず、市場は価格競争へ流れる。
大手の広告は「認知」は作るが、「品質の証明」ではない。
加えて、生葉農家約12,900に対し仕上茶事業者は654、茶類小売は約2,286と、
川下へ向かうほど担い手が細り、産地の価値情報が減衰する構造がある(報告書)。
すなわち、職人が対抗すべき相手は広告費ではなく、この“証明の不在”である。
国内消費側のこの課題は、輸出側の“matcha”定義の空洞と同一構造であり、まさに評茶教育が答えるべき領域だ。
3. 評茶の出番:
ラベルが証明できないものを、官能と分析が証明する
覆下栽培(遮光)が茶に何を起こすかは、評茶教育の中核に据えられる。要点を表にする。
| 遮光がもたらす変化 | 主な成分の動き | 官能・外観への影響 |
|---|---|---|
| アミノ酸の分解を抑制 | L-テアニン等が残存 | 旨味(うま味)が前に出る |
| 光による生成を抑制 | カテキン類が減少 | 渋味が弱まる |
| 光合成色素が増加 | 葉緑素(クロロフィル)↑ | 冴えた濃緑 |
| 新芽の硬化を抑制 | ― | 摘採期の調整が可能 |
「なぜ覆下は旨いのか」を成分機序で語り、実際に湯温・浸出時間を変えて味で示す――
この一連こそ、AIにもラベルにも代替できない評茶師の仕事だ。
「matcha」という空洞語を、栽培・製造・成分・官能の四点で裏づけて「本物の抹茶」に翻訳する。
三十年前に国内で機能を失った“品質の物差し”を、消費者の舌に取り戻す人材を育てること――
それが、いま茶教育に求められている中身である。
4. 史実とマーケティングの分離:
講師が範を示すべき点
抹茶(点茶・末茶)の源流が中国の唐宋にあることは史実である。
陸羽『茶経』の末茶に淵源をもち、宋代の点茶が栄西らを通じて日本へ伝わり、
日本で抹茶(および茶道)へと結実した。この大枠は動かない。
一方で、現代の貴州抹茶産業は「千年の伝統の継承」ではない。
貴茶集団が抹茶事業に本格参入したのは2016年、日本から専門家を招いて技術を移転し、2018年から本格生産を始めた
――れっきとした新興産業である。
中国側の観光・宣伝が「銅仁=抹茶の源流」を強く打ち出すのは理解できるが、「文化的源流としての中国唐宋」と
「産業としての現代貴州(2016年以降)」は、講師として明確に切り分けて伝えたい。
確定史実・競合する解釈・未検証の主張を区別する――この作法こそ、私たちの協会が体現すべき専門性である。
5. 私たちへの示唆:
抹茶は「入口」、その奥に六大茶類がある
煎茶高騰と製茶業の廃業増(2025年は過去最多、帝国データバンク)は、日本茶の生産構造の悲鳴である。
だが消費の側では、抹茶を入口に他茶種・文化へ関心が広がる兆しがある
(JETROのタイ調査。抹茶ブーム後もほうじ茶・煎茶へ関心が拡大し、専門店が茶室を増設)。
中国茶・台湾茶を教える私たちにとって、これは追い風だ。
世界が緑茶の粉末という一点に殺到しているいまこそ、六大茶類の全体像、評茶という眼、産地とテロワールの
物語を手渡す役割がある。量で貴州と競うのではなく、「本物を証明し、文化へ翻訳する」担い手を育てる。
それが、この転換期における私たちの持ち場だと考える。
(文章・図表:中華茶講師協会理事長・華泰茶荘五代目店主 林 聖泰)
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